宇多津の歴史
このコーナーでは、うーみんがカラスに宇多津の歴史で興味があることや知りたいことを質問します。
うーみんはウミホタルをイメージした町のキャラクターで、カラスは、「宇多津の烏(カラス)に多度津の鳶(とんび)」ということばにあるように、航海を安全に導くオミサキさんであり、宇多津にある神社のご祭神が小鳥であることにちなんだキャラクターです。
このページをご覧の皆さんも、一緒に宇多津の歴史について見ていきましょう。
以下の記事では、古代から江戸時代の宇多津の歴史の中からとくに重要なもの、話題性やテーマ性のある事柄を取り上げ、紹介しています。
なお、この「宇多津の歴史」は、完結するまで数回に分けて掲載します。
宇多津町の歴史~由来(古代から奈良時代)
はじめに
「歴史について触れる前に、現代の宇多津について少し紹介しましょう。
宇多津町は、温暖で雨が少なく日照時間が長いという瀬戸内海式気候を利用した入浜式の「塩づくり」が行われて、かつては、わが国最大の「塩の町」として栄えました。
塩田の航空写真(昭和29年・左写真)/現在の宇多津の航空写真(右写真)
万葉集にも歌われた網の浦の時代、宇多津では、飯野山を道標として津の郷の湊(港)に船が行き来し、港町としてたいへん栄えていたようです。しかし、時代とともに町の様相も変わり、今ではそんな時代が想像できないほど近代化しています。
新宇多津都市
昔からの塩田跡地は開発、整備され、そこに宇多津駅が移転したり、観光施設や商業施設が建ち並んだりしました。現在、この地域は「新宇多津都市」という名で呼ばれるようになり、塩田跡地とは思えない新しい景観の街並みが形成されています。その一方、既成市街地では、寺のまちとして栄えたことを想像させる一社九か寺を始め、情緒豊かな古き良き町家、街並みを見ることができます。このため、新宇多津都市と既成市街地という新旧の景観のコントラストがより一層特徴的な町になっています。その点、ユニークなのではないでしょうか。では、これから宇多津の歴史について紹介したいと思います。
古代「神の御面(みおも)の前面にできた町」
「宇多津の町のおこりについて知りたいのですが。」
「それについては、次のとおりです。」
あの『万葉集』第2巻220番の柿本人麻呂の歌に
玉藻(たまも)よし 讃岐の国は 国柄(くにから)か 見れども 飽(あ)かぬ 神柄(かみから)か ここだ尊き 天地 日月と共に 足り行かむ 神の御面(みおも)と 継ぎ来る 中の湊(みなと)ゆ 舟浮けて 我が漕(こ)ぎ来れば・・・・・ |
口語訳)
讃岐の国は、優れた品格のせいか、見て飽きることなく、また、神聖な存在だからか、たいへん尊く、天と地、日月とともに満ち足りていく讃岐の国は、神の面前として、伝えられる、その沖から舟をかべて、漕いでいると・・・・・」
(抜粋。「玉藻よし」は「讃岐の国」にかかる枕詞。)
と読まれた、飯依彦(いいよりひこ)(讃岐富士)。
今でも、飯野山は「讃岐富士(さぬきふじ)」と呼ばれます。
それが町名の由来となったと考えられます。
前方が青の山、後方が飯野山
(昭和29年ころ)
とくに、この『万葉集』の歌からも分かるように、当時の讃岐の人々にとって、飯野山はたいへん重要な存在だったようです。
そして、『万葉集』の歌の言葉を借りれば、当時の宇多津は、人々にとって「讃岐の国の国魂神の全面に広がるまち」だったということではないでしょうか。
御前信仰
宇多津の古代を考えるために、まず古代の「御前信仰」(おみさきしんこう)についてみてみましょう。
御前とは「神の宿る入岬」という意味があります。御前信仰では岬が祭司の場となりますが、巨石をご神体にしていることが多く、そこは霊力のあるところとされていたようです。
瀬戸内海沿岸の岬ですが、その土壌は花崗岩という硬い地盤のところが多いようです。
宇多津にも御前信仰と考えられる古代祭司の遺跡があります。遺跡は瀬戸内海から約1km南の位置にあり、そこはかつて岬だったと考えられます。
現在、その場所に宇夫階(産砂)神社(うぶしなじんじゃ)があります。御前信仰、古代祭司のあった場所に、後世、神社が建てられた例と考えられます。
左「磐境」(いわさか)
右「御膳岩」(ごぜんいわ)
宇多津町のおこり
「まず、「宇多津町」という町名について。町名の由来を教えてください」
「それについては、次のとおりです。」
町名の由来ですが、古代鵜足郡(うたのこおり)の郡津に由来しています。
古書『和妙抄』(937年)のなかにも古代の鵜足郡津野郷があらわれています。
『万葉集』にも歌われた「網ノ浦」
あの『万葉集』の第一巻の五番の歌に、
網の浦の 海人娘子(あまをとめ)らが 焼く塩の 思ひそ焼くる 我がしたごころ・・・・・ |
(口語訳)
「網の浦の海女の娘達の焼けるような心の内の思い、心の中・隠れた想い」(抜粋)
と詠まれた「網の浦」は、今でも万葉ファンの関心事です。ファンは「網の浦」の具体的な場所について関心があるのです。
ここでいう「網の浦」は、諸説がありますが、宇多津の地名として伝承されたものとも考えられます。地名としても残っています。後世、網の浦は全国有数の「塩の町」に発展しました。
現在、この歌を刻んだ歌碑が宇多津の網の浦万葉公園に建てられています。
「かつて宇多津は港町として栄えたと聞きました。では、どのような品が船で運ばれたのですか。」
「様々ですが、織物、土器、紙、塩や魚介などです。」
そのような品が、港に陸揚げされたり、当時の朝廷や藩に献上されたりしたようです。当時、港から織物、土器、塩、魚介、紙、その他30種が、税として収められたと考えられます。
また、讃岐の特産品である桙木を朝廷の祭礼の時に収めた史実があります。
奈良時代、聖武天皇の時代(724年~748年)、鵜足郡二村郷(津之郷の南に隣接した郷)から、「あしぎぬ」を献上したという記録が奈良正倉院に残っています。また、当時献上されたあしぎぬが正倉院に残っています。
なお、「あしぎぬ」ということば「悪し絹」に由来し、本来、糸が荒く粗悪な絹織物の意ですが、当時、へりくだって使われたことばなのでしょう。
このようなことからも、宇多津は古くから港町として栄えたことが分かるのです。
「白あしぎぬ」(復元複製)
香川歴史博物館所蔵 原資料:宮内庁正倉院 奈良時代 746年(天平18年)
(協力・資料提供:香川県立博物館)
(参考)
「白あしぎぬ」は、讃岐国鵜足郡川津郷から租・庸・調のうちの調として進上。 なお、端に地名・人名・年記が記される讃岐国印が押されています。
絵馬からわかること
「新宇多津都市の土地は、昔、海だった、というのは、本当ですか。」
「はい、本当です。そのことを示す、古い絵地図が、町内に残っているので、紹介します。」
「絵馬奉納図」(「網浦眺望青山之真景」)
宇夫階神社所蔵 1855年(安政2年)/写真(下)は裏面(現在、宇多津産業資料館で展示)
この絵馬は江戸時代の作になりますが、以後港町として栄えた宇多津を考えるために重要な資料ですので、紹介します。
この絵馬は、宇夫階神社内の金毘羅社に奉納されたものです。この絵馬の描写の視点ですが、瀬戸内海上からの宇多津町の眺めです。
絵馬の海岸線を現在の写真上に描くと、次の写真のようにおおむね白い線で描いたあたりになると考えられます。線より下は、現在の県道33号線以北、すなはち新宇多津都市です。
新宇多津都市の航空写真
(絵馬の絵の海岸線と比較してください。)
「絵馬のことですが、なぜ、絵馬を描き、奉納したのでしょうか。」
「それでは次に、当時の人が、絵馬を描き、奉納した理由について説明し
たいと思います。」
ここには、海で働く人々の姿が見えます。また、建物が見えます。そこに多くの人々が上陸しています。
絵馬を描いた理由は、海で働く人たちの安全、子孫繁栄、延命息災を祈願したり、水への感謝の念があったりしたためと考えられます。
さらに、詳細に調べると、この絵から様々なことが分かります。
左の絵は、原資料を基に解釈し製作されたレプリカ(複製品)の一部分を拡大したものです。
原資料の劣化で絵の輪郭がはっきりしないのですが、この絵は色、描写の線がとても分かりやすく参考になる資料です。
絵馬は、当時、宇多津が港町として栄え、多くの船が寄港していたという事実を物語っているのです。
また、余談ですが、この絵の描かれた時代より以前は、絵馬の中央に描かれた流れが別の方向に向いていたといわれています。この絵馬のようになったのは、当時の高松藩が現在の「倉の前」付近に米蔵を建てたとされる時代、高松藩によって開発された結果と考えられます。
いずれにしても、船が着き、港として栄えていた当時の宇多津を、この絵からうかがい知ることができるのです。
また、これも江戸時代の作ですが、右の絵も紹介します。ここにも港や多くの船が見えます。
「今日は、色々と宇多津の歴史について学びました。」
「これからも、もっと宇多津の歴史について、一緒に学びましょうね。」
現在の大束川付近の沿岸から船で飯野山を望む
(右に見えるのは青ノ山、撮影協力:宇多津木谷氏)
この写真の視線の先のように、かつて、飯野山を道標として、津の郷の港に船が往来した時代があったのです。 そして、今も飯野山は変わらずに面前にあります。