今回も、うーみんと烏の2人が登場し、宇多津の歴史に関する話題を、やりとりをしながら学びます。
はじめに
第2回目の今回は、鎌倉時代から室町時代にかけて、2人が宇多津の歴史について紹介します。
この時代の宇多津にはすでに港町として物資の流通機能があって、経済的に豊かであったと思われます。
たとえば、「兵庫北関入船納帳」(ひょうごきたせきいりふねのうちょう)という、1445年当時の兵庫北関を出入りした船の記録を調べると、讃岐の港のなかでは、宇多津の港を利用した商船の数はとても多い。
当時の町の済的な豊かさの背景には、そんな事実もあったのですね。
「寺のまち」
「寺のまちということで確かに寺が多いですね。でも、なぜ寺が多いの?」
「それは、次のようなことが考えられます。」
宇多津町の面積は8.10k㎡で、香川県の市町のなかで一番小さい。なのに寺が多い。現在、宇多津には神社が1社、お寺が9か寺ありますよね。
でも、宇多津の歴史を振り返ると、もっとお寺があったようです。
その数ですが、室町時代から明治時代にかけて、廃寺したり移転したりしたものも含めると、一説には、延べ30近くあったといわれています。
また、室町時代の古書には、現在ある宇多津のお寺の名前が書かれています。中でも、聖通寺や十楽寺などの名は、現在、宇多津町の地名としても残っています。
「背山臨水の地」
(飯野山付近の上空からの宇多津町の眺め)
たぶん、その当時から、寺院が多く建立されるような土壌、風土などの条件が整っていたのでしょう。左の写真を見てください。宇多津は、地理的には、三方を山に囲まれる土地柄です。このことは、当時の人々にとっては、たいへんな意味を持っていたと考えます。風水の視点でみると、「気」が飛ばない風土、風地観があります。面積は狭小だけれど、土地柄が宇多津ならでは、ですね。
このように、たくさんお寺が建てられた理由の一つに、宇多津が地理的に優位だったことが挙げられます。
また、宇多津は、当時から港町として物資の流通機能を持ち、経済的にも豊かでした。この豊かさも側面からお寺を支えていたのではないでしょうか。
ここで、室町時代から近代にかけて、廃寺したり移転したりしたお寺の名を具体的にあげてみましょう。まず、廃寺されたものとして、長興寺(ちょうこうじ)、普済院(ふせいいん)、旦(且)過庵(たんかあん)などがあります。また、移転したものとして、浄願寺、法泉寺、円光寺などあります。
なかでも、長興寺は、細川顕氏(あきうじ)の守護在任中の、1335年、顕氏自身が、父頼貞を供養するために建立したとされ、後で紹介する「安国寺」(あんこくじ)、「利生塔」(りしょうとう)のお話のところで登場するお寺です。
なお、顕氏は、室町幕府初代将軍足利尊氏が命じた初代讃岐守護です。
また、普済院と旦(且)過庵は、室町前期、京都五山の僧、絶海中津(ぜっかいちゅうしん 1336年~1405年)を迎え入れるために、後で紹介する細川頼之が建てたもので、1385年、絶海は宇多津を訪れています。
絶海は、室町幕府3代将軍、足利義満と頼之の人間関係が崩れて不和だったとき、仲裁の役割を果たして、足利義満と頼之の和解をもたらした、という人物です。和解後、頼之は赦免され許され、幕府に復帰したと伝えられています。
(参考)
江戸時代の絵図に見る宇多津のお寺の風景(時代はずっと後の作ですが、江戸時代に作成された絵図の中にも、室町時代からあるといわれるお寺の名前を見ることができます)
木版「金毘羅参詣名所図会」
1846年 丸亀資料館所蔵 全6冊 右の写真は表紙 (協力・資料提供:丸亀資料館)
守護所細川氏の居城
「室町時代、細川氏も宇多津に居たことがあるとのことですが、当時の宇多津とのかかわりは」
「では、当時の細川一族と宇多津とのかかわりをお話ししましょう」
「讃岐国古城跡」
1818年 原資料:丸亀市進藤家
これは複写資料
宇多津は細川一族の領国支配の一拠点であったといわれています。
そこで、今回は、南北朝時代の細川一族、中でも宇多津にゆかりのある細川頼之(ほそかわよりゆき 1329年~1392年)について紹介しましょう。
彼は、室町幕府に守護職を命じられてから、一時期、宇多津に居住していたという人物です。
細川頼之を語るとき、讃岐の居城がどこかについて、さまざまな推測、諸説がありますが、やはり宇多津にあった可能性が高いと考えられています。
では、宇多津のどこにあったのでしょうか。
たとえば、古書「讃岐国古城跡」を見ると、その中に
「同郡宇多津青山北麓城細川頼之公居城成 右今ハ本妙寺ト也 法華宗也」
とあります。
皆さんは、頼之のことはご存知でしたか。
彼の居城あるいは守護所の位置についてどう思われますか。
一つのロマンですね。
ところで、細川頼之は、歴史上の人物としては一般に認知されていないように思います。
ですが、讃岐にゆかりのある人物であり、歴史的には、管領として、初期の室町幕府を支えた人物と言われています。
地蔵院所蔵「頼之像」
京都の地蔵院(京都西京区)は、後で述べる夢窓国師が開山、頼之が建立
(協力・資料提供:香川県立歴史博物館 協力:地蔵院)
また、史実としては、細川清氏を讃岐(現在の坂出市白峰山麓付近)の合戦で滅ぼしたこと、1362年、四国を平定したこと、足利義満の幼少期を支えたことなどで知られています。
また、先に少し触れましたが、歴史上「康暦の政変」(1379年)と呼ばれる足利義満との一件で、一度分国の讃岐に流されたこと、後に赦免されて幕府に復帰したことでも知られています。
いずれにしても、歴史的にみて、細川一族による讃岐領国支配は、宇多津をはじめ、中世讃岐の都市誕生の契機になったのではと考えます。
また、当時から宇多津には、領国支配、軍事の拠点になるような要素、例えば、物資の流通機能、地理的条件などが整っていたといえるでしょう。
晩年、彼はある理由で出家しました。左は、そのころの姿を描いた坐像です。
(参考)
頼之は漢詩が得意で、勅撰和歌集に載るほど和歌に長けていたとのことです。
現在、右の写真のように、彼の作った漢詩文を刻んだ歌碑が宇多津の大束川沿岸にあります。
余談ですが、元総理の細川護煕氏は、その家系なのですよ。
また、この歌碑と同じ歌の書で護煕氏直筆の掛け軸が、町内にある国指定登録有形文化財「三角邸」に飾ってあります。

讃岐の安国寺と長興寺
「宇多津の長興寺が、讃岐国安国寺(さぬきのくにあんこくじ)だったと聞きました。
いったい、安国寺とはなんですか」
「私も安国寺について調べるうち、いろいろなことが分かってきました」
まず、安国寺を知るには、足利尊氏の時代にまでさかのぼって調べなくてはいけません。
14世紀初め、尊氏は、南北朝の戦いで戦死した多数の敵味方の死者を弔うため、全国66か所に一寺一塔を建立、または、すでにあったものを充てました。
その寺を「安国寺」と呼び、その一対になる塔のことを「利生塔」と呼んでいました。
南北朝時代には、ほぼ全国に設置されたとされています。
尊氏が崇拝したという夢窓国師(夢窓疎石)の勧めであったとされています。
全国に設置されたもののうち、いまだ場所がはっきりしていないものもあるようで、その全容は明らかになっていません。いずれにしても、当時の安国寺と利生塔の姿や所在の探求は、奈良時代の国分寺設置と同じく歴史の研究者やファンにとってロマンでもあります。
通説では、全国に設置されたもののうち、安国寺は讃岐国ではただ1か所、かつて宇多津にあった長興寺が充てられたと考えられています。全国66か所のうちの第3番目に設置されたということですから、宇多津は、より認知されていたのでしょう。
徳島市有形文化財「雲版」(うんぱん)
1394年(明徳5年) 原資料:丈六寺(徳島市多家良) 大きさ 縦径60.0㎝×横径58.5㎝
現在、本堂と庫裏を結ぶ廊下に吊るされているとのこと。
(協力・提供:徳島市教育委員会 協力:丈六寺)
上の写真を見てください。これは徳島市の丈六寺に今も残る文化財で、室町時代から仏事に使用していた道具です。叩いて音を鳴らし、合図したり、時を知らせたりするのに使います。鎌倉時代以後に普及し、禅宗とともに中国からもたらされたと考えられています。
ここに讃岐国安国寺の痕跡が残っています。
この表面に「讃州安国寺」(写真1)、「明徳五甲戌九月日」(写真2)とあり、室町初期の1394年(明徳5年)に製造、当初は、讃岐国安国寺で使用されていたことが確認できます。
安国寺と利生塔の件で、キーマンとして登場する夢窓国師という人物について少し触れたいと思います。彼の本名は夢窓疎石で、鎌倉の瑞泉寺の庭をつくったように、庭園づくりに非常に長けた人物であったようです。
その呼び名にある「国師」ですが、時の公家と武家のあつい信仰を受けて贈られた称号で、国王の師にふさわしい仏徳を積んだ高僧に与えられるものとされていました。
また、鎌倉後期から南北朝時代にかけては、宗教的に禅の文化がとても盛んな頃でしたから、彼は、禅僧として時の為政者に尊敬されていたのでしょうね。
<h3長興寺跡
「長興寺は、宇多津のどこにあったのでしょうか・・・」
「では、長興寺跡まで行ってみましょう」
長興寺がどれほどの規模であったかなどは、具体的資料がないことなどから謎なのです。
ただし、讃岐安国寺の名は前述の雲版やいくつかの古書の中に見ることができます。
江戸時代の作になりますが、前に紹介した古書「讃岐国名勝図会」には、宇多津の長興寺跡について「当国安国寺跡これなり」とあります。
また、同書には、この付近の井戸について「同所にあり(中略)長興井といへり」とあり、さらに「この所の谷の間に大石を三つ重ねたる、これなり」とあります。
ここで、左の写真を見てください。
撮影場所ですが、宇多津の青の山南嶺、ちょうど円通寺のある場所からさらに上に登った所です。この付近は「丸山」と呼ばれたり、「観音山」とも呼ばれたりしています。
この巨石は宇多津の史跡「三ツ岩」です。
一説では、この巨石のあった所が、細川四郎入道義阿(頼貞)の墓と言われています。
人工物か、自然物かなど謎も多いようです。

高さは約2mもある巨石
地元での聞き取りによると、この付近を代々「長興寺町」(ちょうこうじちょう・まち)と呼ぶ方もいるようですし、付近の井戸を「長興寺の井戸」と呼ぶ方もいるようです。
言い伝えにも長興寺の痕跡、記憶が残っているということではないでしょうか。
いずれにしても、この付近に長興寺という寺がかつてあったと推察され、その跡地は、三ツ岩のある辺りを含めて、この地域なのではないかと考えられるのです。
綾歌郡宇多津長興寺跡春日祠付近出土瓦
瀬戸内民俗資料館所蔵 (協力・資料提供:瀬戸内民俗資料館)
讃岐安国寺(長興寺)と利生塔
「讃岐安国寺と一対になる利生塔は、どこにあったのでしょうか・・・」
「それはね・・・」
善通寺の堂塔「足利尊氏利生塔」
(協力:善通寺)
実は、1344年(康永3年)、善通寺の五重塔を利生塔に充てるため、宥範(ゆうはん)を導師とし供養が行われました。彼は、五重塔などを再建、修理した人物です。
讃岐安国寺である長興寺と一対となるのが善通寺の五重塔であり、この塔が利生塔です。
利生とは仏が衆生に利益を授けることで、その利益を一般に「ごりやく」といいます。
現在、善通寺の境内には1334年に建立された足利尊氏の利生塔と伝えられる石塔が残っています。
ただし、本来の利生塔がこの石塔なのか、あるいは同時期に再建された木造の五重塔であったのかは定かでないようです。
ともあれ、宇多津のこの狭い地域内には室町時代の政治、文化、宗教の最高の痕跡(こんせき)がとどめられているといえるのです。
「さて、今回は、中世の宇多津について学び知ることができました」
「次回も、いろいろ勉強したいと思います。一緒に学びましょうね」