1. 揚浜式塩田 【土地生産性 60t/ ha.年】
海面より高い所の地面を平坦にならし、粘土で固めた塩田です。人力で海水を汲み上げ塩田地盤の砂にかけ太陽熱と 風で水分を蒸発させ砂に塩分を付着させます。この砂を沼井(抽出装置)に集め海水をかけ、かん水を採ります。
2. 入浜式塩田 【土地生産性 100t/ ha.年】
遠浅の海岸に堤防を造り、満潮・干潮の中位に塩田面を築きました。浜溝に海水を導き、毛細管現象 よって砂層上部に海水を供給し、太陽熱と風で水分を蒸発させ、砂に塩分を付着させます。この砂を沼井に集め海水をかけて、かん水を採ります。この方法は潮の干満さを利用した画期的な方法でありました。この方法は、17世紀半ばに瀬戸内海で開発され、昭和30年代まで続きました。
昭和28年頃の入浜塩田(現在の新宇多津都市)
3. 流下式塩田 【土地生産性 250~300t / ha.年】
昭和29年から32年にかけて約20億円の工事費をもって、在来の入浜塩田を枝条架を伴う流下式塩田に2年余りの短い工事期間で完了した。地盤に傾斜を付け、その上に粘土またはビニールを敷き、さらに小砂利を敷いた流下磐と柱に竹の小枝を階段状につるした枝条架からなっており、ポンプで海水を汲み上げ、第一流下磐・第二流下磐・枝条架の順に流し、太陽熱と風で水分を蒸発させ、かん水を採ります。枝条架は海水を竹の枝に沿って薄膜状に落下させ、風によって水を蒸発させますので、冬季の採かんも可能になり、入浜式塩田のように砂を運ばなくてもよくなりましたので労働は大幅に軽減されました。
4. イオン交換樹脂膜式 (現在日本で生産されている製法)
海水には約3.5%の塩類が含まれ、96.5%は水であり、塩類中の78%が塩化ナトリウムです。塩田法が海水の水分を蒸発・除去する方法であるのに対し、イオン交換樹脂膜法は海水中の塩分を集める方法です。イオン交換膜電気透析法の原理は陽イオンだけを通す陽イオン交換膜と陰イオンだけを通す陰イオン交換膜を交互に並べてあります。一室おきに海水を流し、両端の電極から直流電流を流しますと、ナトリウムイオンは陰極に、塩素イオンは陽極に向かって移動します。しかし、ナトリウムイオンは陰イオン膜によって、塩素イオンは陽イオン膜によって遮断されますので、結局、膜と膜との間には濃縮液室希釈液室が交互に作られます。
この方法は、昭和20年代に研究が開始され、30年代に入って試験導入され始めました塩田法に比べ天候に支配されることがなく、土地生産性、労働生産性が格段に優れた海水濃縮法であり、将来、一層のコスト軽減が期待されることから、第四次塩業整備によって、昭和47年4月以降全面的にこの方法に製法転換されました。
宇多津町の塩田の歴史
明治時代から隆盛を極めた宇多津塩田
宇多津の塩田の歴史は、江戸時代の延亨2年(1744)、当時の那珂郡垂水村(現丸亀市)の酒造業者・今田八五郎が後にいう古浜塩田を開拓したことに始まる。その約100年後の天保10年(1839)に讃岐の塩田の祖として知られる久米栄左衛門が坂出に続いて宇多津に塩田を設計したが、この計画はすぐに実現されなかった。
本格的な製塩事業が始まったのは、明治に入ってからのことで、明治4年に高松藩が150町歩に及ぶ塩田の栄築事業に着手したことに始まる。以後、年を追って塩田の開拓が進み、明治31年の町制施行時には、陸枡・仲枡・沖枡・古浜・東浜・大東・土器・安達の8塩田と5つの塩産会社が出揃い、宇多津町の海岸線はまさに塩田に埋め尽くされ、同時に日本一の塩の町として名を馳せることになっていく。
時代の進歩の波間に消えた塩田
しかし、塩の町としての存在価値は時代の変遷の中で次第に希薄なものになっていく。明治後期から大正、昭和初期にかけて隆盛を誇った入浜式による製塩事業は、もともと天候に左右されやすく、しかも築造に多大な時間と費用を要するというデメリットがある。
そうした問題点を受けて昭和27年、塩田を必要としない、すなわち入浜式塩田が持つデメリットを有しない製塩方法が国の審議会にかけられた。まだこの時点では、入浜式を廃止し、従来多くの労力を費やした大量の砂を移動させることなく、すべての操作をポンプによって行う流下式塩田に転換されていくにとどまり、塩田はまだその命運を絶たれてはいなかった。
しかし時代の流れ、技術の進歩はとどまることを知らない。昭和41年、ついに塩田をまったく必要としない化学製塩法であるイオン交換膜法の進出がはじまる。
かくしてついに昭和47年1月30日、宇多津町は歴史的な転換の時を迎えた。塩田・製塩事業すべての操業停止である。それまで町の基幹産業であり、日本一の座を誇っていた製塩業の終焉。 後に残ったのは総面積186haの日本一の規模をもつ塩田跡地だけであった。
広大な塩田跡地活用への模索
昭和47年の塩田及び製塩業の全面的廃止は宇多津町が歴史の中で初めて迎えた大きな節目であった。当然ながら、この時点でまちの基幹産業を名実ともに失った宇多津町にとって、塩田関連に携わっていた町民の3分の1に及ぶ人々の失業が深刻な問題となった。それだけに、次なる産業復興のめどを立てることは、早急にして重大なる課題であった。
そこで香川県や宇多津町関係者が着目したのが、塩田・製塩廃止よりも一歩先に計画が進んでいた本四架橋である。本四連絡橋が完成すれば四国の離島性が解消され、四国全体に新しい活気が生まれることは誰もが容易に予測できた。広大な塩田跡地をこの世紀のプロジェクトの受け皿にできないだろうか。瀬戸大橋プロジェクトに関連して、歴史は再び動き始めようとしていた。